ベン・デザインオフィス 高山勉は、「デザインのちから」で、千葉県松戸市を拠点に活動中。デザインに関するすべての事ご相談下さい

私のヒストリー



高山勉の生立ちと、自叙伝のようなものです・・・・・

自己紹介------------------------------------------------------------------------
氏 名  /高山 勉 (たかやま つとむ)
出身地 /東京都 新宿区 早稲田生まれ
生年月日/1959年(昭和34年)11月26日 2011.01.01現在   51才 
干 支 /亥(いのしし)  猪突猛進
星 座 /いて座    自分勝手
血液型 /O型      マイペース
家族構成/ 父   康 三(同居)
      母   のぶ子
(同居)
      妻   ふさ江
(同居)
      長女 丸山未来(みき) 2005.11.26 結婚 柏市在住  
      
長男    拓(た く) 松戸市内在住
      次女  早 希
(さき)(同居)

趣 味 /仕 事
・アメリカンPOPな小物等ガラクタ集め
   

・ ボランティアによるバンド活動 バンド名/まいはーと
 


好きな物/
・好きな色  特に赤と黒の組み合わせ
   

・ 好きなたばこ ウインストンライト6mg ※まだやめられない。。。
     
 

・ 好きな食べ物 お子様料理全般 (珍味系・高級食材はダメ) 
   

では 私のヒストリーです。。。。。(か なり長文です)


● 第1章 プロローグ

   
 
1959年(昭和34年)11月26日

新 宿区早稲田にて洋服縫製業を営む両親より生を受けました。
こ のあたり

生 まれた病院は新宿日赤病院。

そして、5才の時に新宿区下落合に移りました。
8世帯の木造アパートで6帖1間に家族4人。
もちろん共同便所・共同炊事場。
そこで親父は、洋服を縫ってました。  こ のあたり
糸屑いっぱいの仕事場に親子4人が泊まってたってかんじですが
不思議と狭いなんておもったことはありませんでした。
   
隣はキャバレーのホステスさん。
毎日マージャンの音がしてたような気がします。
昼間はシミーズ1枚で洗濯とかしてました。
反対の隣はやくざのチンピラさん。手配師という職業でした。
腕に桜の入れ墨があったけど、銭湯にいっしょにいったり、
釣りにつれてってくれたり、
けっこういい人だったんですね、今思うと。
 
で、小学校4年のとき、まんが家になりたいって、
作文を既に書いてました。
習字の自由課題も「漫画家」という字でした。 新 宿区立落合第四小学校

 少年野球チーム レッドアローズ(右から2番目)
 
だから毎日毎日 絵を描いてました。

今 でも大切にとってありますが、
スケッチブックと、チラシの裏とかに、
びっしりまんがが書いてあります。
天才バカボン・もーれつア太郎・ダメおやじ・アニマルワン。。。
オリジナルのキャラクターをつくったりしてました。

あと、蚤(ノミ)の拡大図とか、かぶと虫の標本の絵とか・・・
エジプトの壁画とか 幻の怪獣とかですね。
あと、ピカソの「泣く女」とか「ゲルニカ」

   

 
ゴッホの「教会」とか「ひまわり」なんかは 「模写」してました。
ギターペイントの水彩絵の具でしたね。

変わった子だったなぁって、今 振り返って思います。

で、中学1年の2学期に、東京都下 武蔵村山市に
新築一戸建てを手に入れ引っ越しました。  こ のあたり
親父もおふくろも、がんばったんだねぇ。
新築 30坪で770万円。1972年(昭和47年) 
札幌オリンピックの年でした。  武 蔵村山市立第二中学校
 
で、中学2年のある夜。 なんのはずみか、
愛犬ペスと散歩してて
「僕は絶対デザイナーになる」って誓ったのです。
強くて堅い決心だった。

今想うと......天の声っていうか ............... なんだったんでしょう?

きっとこの時が、漠然と絵がすきだった漫画好きな 変わった少年が
『職業』って形で美術を考えるようになって、
夢と現実が入れ替わった時期だったんだろうと思います。

 中3の修学旅行 (真ん中)


● 第2章 高校時代

目指したのはインテリアデザイナー。
高校は水道橋にある、
東京都立工芸高校の 室内装飾科が目標だったのです。

しかし偏差値が20以上足りずに断念。。。。。
東京都立 田無工業高校の 「建築科」を狙うも 
担任から「建築科」は危ない。
こっちの科なら100パーセントだからといわれて 「建設科」に。
※現在は都市工学科   東京都立田 無工業高等学校 都市工学科

科の名前はかっこいいのですが、中味は土木科なのです。

3年間 コンクリートの練り方・ブルドーザーの運転技術。
橋やダムの設計力学計算・土質・測量なんかやってました。

 

なんたって、制服のブレザーがあるのに、作業着で通学。
3年生には、ドカジャンに地下足袋で通学なんてのもいて、
個性的な学校でした。 (現在はわかりませんが(^^;)) 

真ん中です(笑)

でも、将来の進路は決まっていましたから、
ほとんどみんな就職の学校から
前代見門。デザイン学校に進んだのでした。

先生には、止めらました。 
「まともな仕事につけっ」って。
デザインなんかじゃ食っていけないって風潮はありましたね。

頑固な私は・・・考えを貫き通しました(笑)

このころはTVの「俺たちの旅」とかの影響で
「1人旅」に憧れて休みの度  ふらふらとどっかにいってた、
相変わらずの変わり者でした。


 
中でも原付きバイクで行った城ヶ島と
夜行列車で行った飛騨高山がいい思い出になっています。 


● 第3章 青春

英語と数学は3年間「赤点」※35点以下 でしたが(^^;)、
それでも 高校はなんとか無事卒業。
そして、お茶の水の『お茶の水デザイン学院』  こ のあたり
インテリアデザイン科へ進みました。

学費は自分で出す約束だったので
国立音楽大学のすぐそばで、
パブレストランのウエイターをやりながら こ のあたり
デザイン学校に通う事になりました。

時給は430円。
そのうち、そこでコックもやってみ? ってかんじになり、
ついには 「店任せるから。」ってことになって、
18才の小僧が150人位入るお店を仕切る事になりました。

そんなある日、国立(くにたち)にいい物件があるから
見にいこう!!って、
そこのマスターと見に行ったのでした。  こ のあたり
国立駅前の2階。席数120。
マスター『どう?』
私   『どう?って...........?』
マスター『君にこの店をプレゼントする。賃料も無し。
     ただし 売り上げから50万円入れてくれ。あとは君のもの。』
私   『えっっっっっっっーーー???』
私、19の春です。
私   『1日考えさせてください。』
考えました。。。19才のちっこい脳味噌で。。。
今考えると、最初で最高の人生の分岐点。

で、忘れもしない次の日。
5月の雨がしとしと降る日に、電話BOXから電話しました。
『デザイナーになる夢がありますから、お断りします。。。』


かぁぁぁーーー   なんとかっこのいいこと!!!!
恥ずかしいぃってかんじでしたが、
デザイナーになる夢は 捨てられなかったのです。

それでも、そのままバイトは続けてました。
そんな時、
「出席日数が足りないので 卒業できません。」という学校からの通知。
別に驚かなかった。親も何も言わなかった。。。。。 


● 第4章 旅立ち

もう1年留年してやる気も毛頭ないし
『家でて、アパート借りて暮らす。』って親に言いました。
私、20才の冬でした。

実家の親に、んじゃぁって軽く別れを告げて、
ブルーの1BOXに荷物満載。
キャリアにはソファーベット積んで、あぁ青春ってかんじ。
行く先も決めずに。。。。。

 この頃の車 NISSAN サニーキャブ
 
次の日、立川の駅前でふらふらしてて買った、
一冊のアルバイトニュース。
この1冊の本が、今の人生を決定づけてくれました。
デザイナー募集! 25万上! これだぁ!!! 


● 第5章 松戸にきて

千葉県松戸市。
こんなきっかけで、今の街 松戸に辿りつきました。


 
6帖3帖 水洗じゃないトイレ・共同風呂っていう
アパートを17,000円でみつけていただき    こ のあたり
看板屋さんに就職。そこの企画室勤務。  株式会社ナショナ ル・アート

折しも世の中、バブルに向かってつっぱしってましたから、
ラブホテルとかコンビニエンス・中古車センターの 建築ラッシュ!

いきなり大量のネオン・看板のデザインをさせて頂き、
そして、いきなりの残業残業の嵐で200時間超えるのもざらでした。

   

でも、お酒は毎日毎日飲んでました。(ーー;)

自炊もちゃんとして、100g 30円の大好きな鳥の皮ばっかり炒めて食べてました。
お酒は当時、焼酎の樹氷ってはやってて、
それのオレンジジュース割り。
ブッチャーが宣伝してたやつですね。

近くのスナックも10件位常連だったし、まさに独身貴族(?)。
でも 若かったから浴びるように飲んでも、
次の日 なんともなかった。 そんな時もありましたとさ。


第 6章 かあちゃん登場!!!

年も明けて 1981年(昭和56年)
スキーをしたことがなくて、
1度くらいは.........とおもってたときに、会社の仲間からお誘い。
丸山スキー場。
でも、女っけがほしいねぇってことで、当時の会社の
専務の奥さんが友達に声かけてくれて......
男5人 女5人の理想的な組み合わせになりました。

私は初日に脚を捻挫してしまい、でもでも
夜のディスコでは踊りまくってました。(^_-)

で、2泊3日のスキーが終わり、松戸に帰ってきてうちあげ!!!!
松戸西口 食道楽。
ほんとは違う女の人がよかったんだけど..........ははは(^_-)
なぜか、いまのかあちゃんと2ショット。

かあちゃんは当時25才。私は21才。4つも離れてたし、対象外だった(^^;)
でもでも、喋るとみょーにうまが合うへんな奴で・・・
で、途中でぬけだしちゃおぅってことになって、2人でもう一軒。
松戸西口グランドコンパ。





『苦しいーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー』
ん? なになになに? どーしたの??????
かーちゃん 急性アル中のよーです。こわかったぁ 。
横になってたら多少良くなって...............ほっ!!
1981年2月22日の事でした。


第 7章 結婚??

朝起きたら............ジーパンまくって、袖まくって 台所の床掃除してるの。
味噌汁かなんか もう作ってあって..........
台所が東向きで 振り向いた顔が逆光でみえなくて............... (脚色有)

『こいつと結婚したら...........おもしろいかも...........』 って思ってた。

出会って2日目、親父に電話してた。
『結婚するよ!』
その日の夜プロポーズした。逢って2日目。
そしたらいつのまにか、すぐ近くのマルエツっていう
マーケットで サンドイッチ屋さんのバイトきめてきた。
もーうちに住むつもりでいたようです。。。。

出会って1週間で、かあちゃんの母親と義兄さんに頭さげてた。
どきどきの心配をよそに
「こんなんでよけりゃ もってけ〜」と義兄さん。(^▽^)
じゃ早いほうがいいっていうんで、すぐ式場さがし。
いろいろあたって、5月30日に柏の平安閣がとれました。

・・・とんとんとんとん拍子に 進む進む!!!
式も近いある日
『できたみたい................』
へ?
やったーーーーーーーーーーーーおお喜びーーーーーーーーーーーーーーー
この順番が大事。できちゃった結婚ではないのです。(^^)V 


第 8章 新居&車

早速 新居さがし!!
結局いろいろアパートみたけど気に入らなくて、
900万のオススメ 売マンションならいいのありますけどって
松戸東口の 長谷川不動産。

そんな頭金あるもんか...............
「あなた.........(当時はまだ、あなたと呼ばれていた)
 見るだけ見てみようよ!!!」
「へ?????」
「ちょっとならお金あるよ............」
「へ?????」

かあちゃん.............今もそうだけど、財布の紐が固いから(?)(^_-)
高卒で、銀行員やってて、自宅から通ってて、お金使うときがなくて
今も正確にはわかんないけど、結構お金も持ってたらしい.......
ひぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇーーーーーーーー
それで真北向き(^^;)だけどの1LDKのマンション買いました。 

こ のあたり

つ いでに......当時 サニーキャブって紺色の1500ccの1BOXを
バニング仕様にして乗ってたんだけど
ステップバンっていう(今のスズキのワゴンRそっくりな車)
HONDAの360CCの軽が欲しくて欲しくて........
中古車屋さんにいって
黄色のステップバンも買ってもらいましたぁ。

 この頃の車 ステップバン

まるで若いつばめのよーでした。(^^;) 


第 9章 結婚式
 
1981年(昭和56年)5月30日  柏 平安閣にて結婚式。

 
 
でも、出産予定日が12月21日だから、かあちゃんはつわりのどまんなか!!
そんな中、YMOのテクノカット。坂本龍一仕様でばっちり決めた(?)私が
ステージでギターで歌を歌うという偉業も達成したのです。
歌は『花嫁』(^_^)

で、お決まりの胴上げで無事終了。
式場の玄関ホールに陳座する、愛車 黄色のステップバンには
ホワイトボードマーカーでおめでたい落書きがいっぱーーーい。
そして、んじゃねぇーーーと式場をあとにする、
幸せいっぱいのカップルがここに一組、誕生したのでした。
次の日から おめでたい落書きが書かれたままの
黄色いステップバンが 富士五湖周辺で目撃されていたのでした。。。 


第 10章  長女 未来 誕生

1981年(昭和56年)12月20日 長女誕生。


子供の名前は高校の時にすでに決めてました。
キャンディーズの美樹ちゃんが好きだったこともあり(^^)V
「未来」と書いて みき。

昭和56年当時は 斬新な名前でしたが
今は みき みく みらい と 結構いる名前になりましたね。

このころ 1LDKのマンションが手狭になり
松戸市稔台の中古マンションを物色・買い替え。  こ のあたり
いきなり3LDK。
とても広くなり 陽当たりも環境も良く
自分の部屋も持つことができました。
エレベーターも2世帯で1台!!

 この頃 ステップバンをブラックに全塗装

高山勉 23才の贅沢な冬でした。 


第 11章  長男 拓 誕生&会社設立


この頃、 ネオンの勉強の為、単身ラスベガス旅行。

さてさて、看板屋さんの企画室。
主任の肩書きを既に頂き 沢山のデザインとお仕事を覚えさせて頂き
富士山まで行っての 指導者セミナー等も受講させて頂きました。

そのころ 長男 拓 誕生。
出産予定日を2週間も遅れ 4キロ近い体重で出てきました(^0^)



24才にして 子供2人の父となり 順風の毎日でした。
 
しかし 自分の中で「デザイナー」という肩書きには
とてつもなく大きい憧れを持っていて
当時レコードジャケットを手掛ける
原宿のデザイン事務所の面接を受けました。
 
見事 不採用。(^.^;
当時24才。 畑違いですので 経験はゼロに等しく 当たり前の結果でした。
ここで 天使の囁き(?)が・・・「独・・・立」・・・・・・・
 
若かったですね。まさに若気の至り。

だけどとてもおかしな心境でした。

食べて行く自信なんか これっぽっちもないのに
食べていけなくなる心配もこれっぽっちもなかった。
もちろん家族も大賛成。
お気楽人生(?)の始まりです(^0^)

もちろん 事務所は 私の部屋。6帖間です。

 6帖の事 務所  
 
会社の名前はいろいろ考えました。
最後に残ったのは
・ベンデザイン 
 ※勉(ツトム)をベンと読み、Benとして 世界でも通用するように。
・TTC(ティー・ティー・シー) 
 ※タカヤマツトムカンパニーの頭文字。
でしたが  結局
クリエィティブオフィス ベンデザインとし
1988年には 有限会社ベン・デザインオフィスへとなるのでした。 


第 12章 井の中の蛙 船出する
  
会社をやめ 会社をつくる。
いま思うと おままごとのような気持ちでしたか・・・

保障の無い生活への 周りの反対。
独立と言う意味の重さ。
いろいろな諸先輩からアドバイス・叱咤・激励を頂きながら
とりあえず 営業活動と独立開業に関する本を読みまくりました。

毎日、地元の看板屋さんを回っているうちに
「うちに常駐できてくれないか」と柏市沼南の看板屋さんにお声掛けを頂き
そこにひとまずお世話になることに。

 こ の頃の車 ワーゲンタイプ3

いままで ひとつの看板屋さんしか経験したことがなく
無謀な自立でしたが
他の会社に接したことがない 私にとって
はじめて見るもの・聞くものも多々あり 
いままで係わりのあった方々 プラス 色々な方とお会いすることができ
また いろいろな分野の方々をご紹介もして頂き
井の中の蛙が 少し見識を広げはじめた時期でした。

そのうち 柏市沼南の看板屋さんにお世話になりつつ
自分のお客様も増えてきて
自宅の6帖間1部屋では手狭になり
すぐそば 稔台駅前のビルの3Fに 事務所を構える事になりました。
6帖×3部屋 ¥55,000のお家賃でした。  こ のあたり

その事務所にしてはじめて アルバイトさんにきてもらいました。
いつも通っていたスナックのおねーちゃんでした。(^^)V
免許も持っていて 原稿の受取・納品・届けに日々走りまくってもらいました。

その頃から チラシ・パンフレットなどのデザイン・版下を手掛けるようになり
これも見よう見真似ですから クレームも多々頂きました。
実社会において 勉強をさせて頂き 生の声でお叱りを頂いたことが
技術の取得の時間を短縮させました。

現在のような パソコンなどという常識がなかった時代。
版下作業は職人技でしたから。

 版 下作業七つ道具  

ペーパーセメント・ロットリング・烏口・エアブラシなどを使いながらの
今振り返ると、実にアナログの作業の毎日でした。

 この頃の車 マツダ ファミリア

で 版下には「写植」というものがどうしても必要で
運良く近くに 写植屋さんがありましたので・・・
しかし この頃 FAXという 常識もなかった時代ですので
1文字 2文字でも 車とばして頼みにいかなくてはならず・・・
ちょうどタイミング良く訪れた 事務器屋さん。
中古のFAXを手にいれました。

当時は まだまだ 宝物でして 
銀行から引き上げた中古なのに 130万円もしました。

1985年 ひそかにバブルは動きだしていました。 


第 13章  夢の一戸建て 

お宝FAX(?)購入から1年

その事務所は 駅前のため 駐車場がなく
車でみえるお客様も増えだしてきましたので
土日の不動産チラシを穴のあく程 見まくり
いろいろな物件を見に行き始めました。

この頃 とにかく いろんな物件を見ました。
崖に立つ陽当たりの悪いマンション。
  プレハブのおもちゃのような家。
    田んぼに立つ 工場つきのばかでかい家。
      手賀沼一望の別荘用地。

中で一番抜きにでたのが ある朝 チラシに入ってきた
築15年 店舗付き住宅。松戸市根木内。

お店を構えて 作業場が道を通る人から見えるなんて
夢の夢でしたから飛びつきました。
上本郷の中津工務店さんの物件でした。

案内されたら なんとこれが 国道6号沿い!!
目立ちたがり屋で見栄っ張りな私の為の(?) 
もう2度と出ない最高の物件と悟りました。

しかし 少し知恵もついていましたので
国道沿い うるさいよなぁ 揺れるしなぁ 空気もわるいしなぁと
すぐにでも契約したい 焦りの心にみごとにフタをして
お値引き待ちの状態を作りました。
結果150万程 お値引きをして頂き 2,150万円で契約。 こ のあたり

 
 
高山勉 26才の冬 1986年。
  
せまりくるバブルの波が見え始めたころでした。

 この頃の車 フィアット リトモ


第 14章  バブル突入

手で描くデザイン。
その頃のデザイン作業は「作品」でした。
サインデザイン・パースは 間違いなく 
ポスターカラーと カラーインク・ロットリング
エアブラシを使って仕上げていました。

チラシ・ポスター等のデザインは 
写植とロットリングが必需品でした。

 この頃 松戸商工会議所 広報委員会に

世の中の流れは やっとコンピュータが市民権を得てきて。。。
しかし 巷では ファミリーコンピュータがやっとの時代で

そんな時 飛び込みの売り込み営業マン登場。
コンピュータで絵が描けますよ。。。



これはすごい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 
それは PC-98 を使って動く 「絵画」というソフトでした。
でも なんとなくうさん臭い営業マンでしたので躊躇していた所へ
天下の 大塚商会登場!!
多分 コピー機かなんかの売り込みだったんだろーけど
そんな話をした所
「うちでもそーいうのありますよ」
 
よし!!!   だったら見にいこー
ということで 八重洲のショールームで実際のものを見せて頂き
即、導入を決めました。
1987年5月のことでした。

パソコンはPC-98     ソフトは ダイナピックスVというもの
インクジェットのプリンタは ロール紙仕様でA4巾
それが36万円
スキャナーは ハガキサイズの読み取りのもので 39万円
ソフトは50万円
なんだかんだ  一式400万円の投資をしました。

 

でも いいんです
コンピュータで絵が描けるなんてもの
誰も持っていなかったのですから。。。

憧れのコンピュータグラフィックスが手に入るのですから。。。

 この頃の車  マツダ ファミリア


第 15章  3人目 次女 早希 誕生

27才の春。

社員も募集し 所帯は大きくなりはじめてました。
始めての面接で 8人の女性と2人の男性がきて
ひとりずつ採用させてもらいました。

そんななか 3人目の子供 次女 早希が誕生しました。



27才にして 3人の子供と 2人の社員に囲まれ
夢だった 松戸一番のデザイン事務所を目指しました。

  この頃の車 ワーゲン サンタナ

当時は八柱にあった デザイン事務所さんが
規模売り上げとも 松戸NO1でして
なんとかそこを追いこしたく がむしゃらに毎日走ってた気がします。

このころ 個人事務所を 有限会社にしました。

また、見聞を広めるためと、ネオンの勉強に
単身2週間程 2回目となるラスベガスを歩いてきたのもこの頃です。



そして、アメリカより戻ってすぐ
コンピュータグラフィックスによる個展を
綾瀬のイトーヨーカドー ステップギャラリーにて開かせて頂きました。



仕事は ことごとく 順調で
横浜が 未来博覧会を期に、すごい再開発をはじめた時で
博覧会のパピリオンや 船
周辺地区のまちづくり等 いろいろな形で携わらせて頂きました。

 

三和みどり館のメインオブジェ
連絡船 シーバスの船体デザインもさせて頂きました。

今思うと ものすごいメジャーな仕事を沢山させて頂きました。

新たな社員も抱え 一時は 8人の大所帯になりました。

当然 事務所は手狭になり
独立当初のひそかな夢だった「自社ビル」建設へと心は動いていました。

 この頃 の車 日産キャラバン


第 16章  夢の自社ビル

30才前の ろくに実績もない事務所に 8,000万近い融資OKの銀行があり
借金も実力のうち・・・・・などと すこし天狗になりかけてた私は
それが バブルの落とし穴と知る由もなく
自社ビルのプランは 着々と進行して行きました。

毎日毎日 自分で図面を書き直し
理想的になったところで 友だちの一級建築士に
法律をクリアする図面を書いてもらいました。

地下1階 地上4階 総床面積80坪近いプランが完成しました。

あい見積もりを 3社にお願いし、
2番目の会社にお願いする事にしました。

重量鉄骨にヘーベル仕上げという ごくありふれた構造にも関わらず
建築代金は 坪単価 約100万円。

この頃の車  ワーゲン リンカーンマスク

この バブルで 鉄骨も品薄になってるので
着工は早い方がいいですよと・・・建築屋さん。

そーならばと 契約し 旧事務所解体へと 話は
どんどんどんどん 進むのでした。






高山勉 31才の冬。
実は バブルはすでに 崩壊への一途をたどりはじめていたのでした。。。


第 17章 自社ビル完成
 
着工から 約 半年。
夢に見てた 自社ビルが完成しました。   こ のあたり

  

マリリン・モンローの壁画は
友達の塗装屋さんに足場を組んでもらい
もちろん自分で描きました。

1992 年1月26日。
お祝いのパーティーを開かせていただき
昼 夜 合わせて 120名近いお客様にきて頂きました。

いまでは とても 信じられない 政治家の先生とか
有名企業の社長さんがわんさか。
高山 勉  もー 有頂天ですね。。。

ひろびろとした 3Fのお風呂に初めてつかったときの
あの 優越感は いまでも忘れません。

「ついに 俺も ここまできたか・・・」と
ひとりごとをいったのも わすれません。

実は すでに バブルの崩壊は はじまっており
ひしひしと 迫りつつあるのでした。

高山 勉 31才の春です。

 

この頃の車 フォード トーラス 3,800cc


第 18章 更なる飛躍へ

夢 の自社ビルが完成し、お蔭様でお仕事も順調にこなしていました。
このころ 社員は女性2人と男性1人。
プラス 女房と私とで、5人体制のベン・デザインオフィスでした。

営 業用にと 日産のエスカルゴを新車で購入。


そ して、1995年2月には、PC-98による、
前々からの夢であった 
コンピューターによる「おえかき教室」を開校。
コンピュータ・アートスクール Big Ben と名付けました。

地 域の新聞にも生徒募集記事を載せさせて頂き
15名近い生徒さんに集まって頂き
年1回 松戸駅東西連絡通路ギャラリーにて 
作品展を開催させて頂いたりしておりました。

 

社 員にも、子供達にも囲まれ
日々悠々敵無し 笑顔笑顔の毎日でした。


第 19章 更なる快進撃へ!!??

1995 年10月には資本金を3,000,000円に増資。

このころ 社団法人 松戸青年会議所に入会。
はじめて携帯電話を持ちました。(PHSです)

1996 年6月には、遅ればせながら
Power Macintosh9500等々を導入し、DTPの設備も整えました。
(DTP→デスクトップパブリッシング→机上出版)

  Power Macintosh9500

こ れもすべて独学でこなし

1996 年12月には、大塚商会 alpha-webとプロパイダ契約をし、
インターネットの接続を開始しました。
社会的にも結構早い時期だったと思います。

現 在では、ネット環境が家庭でもあたりまえになっていますが
この頃は、ネット接続代金も 電話の通話料と同じで
つなげば つながっただけ 料金が加算されるという時期でした。
ですので 夜11時から朝6時までは料金が定額という
「テレほうだい」という契約をし、
データ送信・資料収集などをしておりました。

世の中 進化したものです(笑)

 ネッ ト用の Macintosh パフォーマ 


1998年3月

Macintosh-G3等々 導入。更なる設備の充実を計ってゆきました。

 

こ のころより、友人の誘いにてボランティアによるバンド活動開始。
福祉施設のお祭り、イベントなどに出演させて頂きました。
その活動が地元テレビで紹介されました。
ボランティアの功績にて 石原東京都知事より表彰をして頂いたからです。

   



さて、そんなこんなで
2000年3月には、
独自ドメイン ben7.com 取得。
ホームページもネット環境も充実させていきました。

し かし、世の中はすでに バブル崩壊後 
すべてにおいて活気が無く
3K削減の動きがあたりまえの風潮になっていました。
(交際費・交通費・広告費の削減)

社 名変更 C.Iの導入 新店舗の出店 事業規模拡大 等
いわゆる業界の「おいしい仕事」たちは影を潜め

ベ ン・デザインオフィスも女房と2人のひっそりとした体制になり
もちろん仕事量も激減です。

広 すぎる自社事務所が とっても寒々と感じた時期でした。


そして悲しい事に 自ら命を断つ友達が増えはじめ
バブルのツケの大きさを やっと感じはじめたところでした。

世 の中まさに 世紀末。

こ んな心境で 夢の21世紀を迎えました。


2000年の3月には 沢山の経験と友達ができた
社団法人 松戸青年会議所を卒業。

同 時に 社団法人 松戸商工会議所青 年部に入会させて頂きました。

高 山勉 若い若いつもりが いつのまに 40才の春でした。


第 20章 充電期間 〜二足のわらじ〜

仕 事量も減り 収入が減っても
自社ビルのローンとその他諸々の資金の返済は待ってくれませんので
他の所でも働くという、いわゆる 二足のわらじを決断しました。

2001 年9月より お客様であり友達でもあった
屋外広告業 有限会社ヤマダ工芸 デザイン室への
勤務を始めました。

デ ザイン室とはいえ、
夜中の現場作業、4t車の運転など 初めての経験ばかりでしたが
毎日がくたくたとなり 余計な事は考えられませんでしたので
かえって 楽しい毎日となりました。

勤 務前の早朝と 勤務後の夜中が
ベン・デザインオフィスの時間となりました。


長い長いトンネルへと入った瞬間でした。

 この頃の車  ワーゲン パサート ヴァリアント

そ れでも、本当にありがたいお客様はいらっしゃいましたので
ベン・デザインオフィス
のお仕事はいただけておりました。

そしてこのころ、2002サイン&ディスプレイショーの

関東地区広告美術コンクール 課題 「日本の祭り」を題材にした

ポスター公募で審査員特別賞を頂き

東京ビックサイトに展示され表彰を受けました。

 

そ して、2002年3月には Windows2000の環境と
レーザープリンタEPSON LP-8000C
A3対応 フラットベッドスキャナー他を導入しながら

2003 年7月まで 1年10ヶ月 ヤマダ工芸様にお世話になりました。


更 に2003年8
多様になってきたお客様の仕事に対応するため
Macintosh-G4 OS-10.2 他を導入し、設備の充実を計りました。

 

2003年10月
2社目の会社となる
冠婚葬祭業 株式会社ライフランド 千葉本社 宣伝課へ
プレイングマネージャー候補として勤務をさせて頂きました。

 

こ こでは主に、結婚式場 プラザヘイアングループと
土浦のウエディングテーマパーク
ラ・フォレスタ・ディ・マニフィカの
販促グッズ・広告宣伝を主に担当させて頂きました。

い わゆる 企業の中にいる社員とは こうあるべき・・・ということを
身を持って体験させて頂きました。 

 この頃の車 オペル  ティグラ

そして、2004年5月からは、 3社目の会社となる

東京港区三田の広告代理店
株式会社ジャパンアートクリエーション 本社へ、勤務をさせて頂きました。

こ こは、三田の一等地に構えるマンションの9階で
いきなりもともと勤務する女性社員達の長にさせて頂きました。 こ のあたり
あこがれのチーフデザイナーです。

そ して 主に 情報誌 ぱどの広告製作
居酒屋チェーン モンテローザの
グランドメニューを担当をさせて頂きました。
(白木屋 笑笑 魚民 魚萬 美食厨房 他 8ブランド) 

こ の年の各店のメニューはすべて 私のデザインとなりました。

デ ザイン作業にはとても 自信があったのですが
いわゆるDTP作業の スピードが半端ではなく
独学の一匹狼だった私に、ものすごい衝撃を与えて頂きました。



こうして いろいろな会社にお世話になりながらも
ベン・デザインオフィスのお仕事は細々ながら頂けておりましたので

2004 月11月には お客様のニーズに対応するため

レーザー複合機 RICOH imagio Neo C245
インクジェットプリンタ EPSON PX-G920 
一眼デジタルカメラ FUJI FinePix S7000を導入しました。

 

さ らに 2005年1月より
千葉県八千代市の屋外広告業
有限会社 京葉宣伝 企画デザイン室長として招いて頂き、
デザイン全般を担当させて頂きました。
ここで 二足のわらじ 4社目の会社となります。

こ こでは 
カッティングマシーン・大型インクジェット等の
オペレーター作業もさせて頂き 経験の幅がとても広がりました。

 この頃の車 ワーゲン  ゴルフ

そして、2005年10月より
フリーランス契約にて
山形屋商事株式会社 ホテルスプリングス幕張 MAP
支配人室 営業企画課 専属デザイナー勤務をする事となりました。


こ こで5社目の勤務となりますが
ここでは初めてフリーデザイナーとしての契約をさせて頂けました。

都 市型リゾートホテルの営業企画課とはいえ
私1人っきりの部署でして上司も部下も無し。

80 才を超える女性オーナーのすぐそばで
日々 お仕事をさせて頂きました。

   

       

ディ ナーショー等 各種イベントの企画運営
館内レストランのメニューデザイン製作・企画
ベイFM・ちばテレビ等CM製作・販促物・広報全般を
主に担当させていただきました。

 
そんな中 2005年11月に 長女 未来が結婚!


そ して、2006年2月には
株式会社  総合報道出版 POPEYE  2006年2月号に
サイン(看板)による集客増加事例として取材を受け 誌面掲載。

い つも大変お世話になりました
ファニークリーニング様のデザインを載せて頂きました。

そ してついに初孫誕生!!

2006 年9月
長女 未来の第一子 晴(はる)が誕生しました。(1人目の孫)

 写真左 2010.8撮影


そして、2007年5月
松戸商工会議所より推薦を頂き、有識者として松戸市長より委嘱を受け
松戸市景観形成検討委員会の委員メンバーとさせて頂き

名 立たる大学教授様達に混じって
松戸市の 景観条例施行に携わることとなりました。

 

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ホテル勤務を続けながら
ベン・デザインオフィスとしても とてもとても忙しい毎日でしたが

2007 年8月31
有限会社ベン・デザインオフィスを、
個人事業所とし、個人を含めた債務の整理をさせて頂く事にしました。

思 いつめた上の苦渋の決断であり、
様々な方々にご迷惑をお掛けしましたが
このままの継続は 心身公私共に不可能という判断をさせて頂きました。

そ して 2008年11月1
26才より20年以上住んでいた松戸市根木内を離れ
事務所・自宅の移転を致しました。


 
新住所は
〒270-2212 千葉県松戸市五香南2-3-5 MAP
TEL 047-388-2471   FAX 047-388-2472 となりました。

 この頃の車  NISSAN CUBE

そ んな中 2人目の孫誕生!!
2008年11月
 長女 未来の 第2 子 葵(あおい)が誕生しました。

 写真右 2010.8撮影

そ んな中 仕事はといえば
屋号は ベン・デザインオフィスとして継続する環境が整い
ホテル勤務も継続させて頂いておりましたが

2009 年7月28日
山形屋商事株式会社 ホテルスプリングス 幕張 
支配人室 営業企画課 専属デザイナー勤務を終了させて頂きました。


第 21章 充電終了 〜再起動〜!!??

完 全フリーランスへ、再起動!!??

2 度目の人生の始まり!!??

ベ ン・デザインオフィスとして
一匹狼として もしかして また がんばれるかも・・・。

そ んな思いもあり 自らの環境を色々変えてみる事にしました。

し かし、二足目のわらじが無くなる心配事も もちろん多々あり

再 度のわらじを求め 

・市川市のビジネスホテルのフロント勤務
・某299円 大手居酒屋チェーンの池袋の本社デザイン室勤務

 2社の面接を受けました。

顧 みれば 若い若いと思っていましたが
。。。すでに50才間近のいいおじさんになっていました。。。

で も フロント勤務は40才 
デザイナー募集は35才が上限でしたが
ありがたいことに 両方 採用のお返事を頂きました。

こ こで 悪魔(天使?)のささやき。。。。。
「ここで また わらじを履くと また両方脱ぐ事になるぞ」




。採用は辞退させて頂きました。

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2009.11.3

レーザープリンター EPSON LP-9000C
名刺裁断機 他 導入 設備の充実を計る

 

2010.3.18
(社)松戸商工会議所青年部 卒業

2010.3.19
松戸宿坂川 献灯まつり 実行委員会に参加
意匠・デザインを担当。 
http://www.kentou.org/


2010.6.16
NPO法人 
コミュニティ・コーディネーターズ・タンク(通称CoCoT)
理事に就任 
http://npo-cocot.com/

2010.7.13
NPO・市民活動 見本市 実行委員会に参加
約80団体参加の 見本市の開催に携わ る。


2010.8
株式会社  総合報道出版 POPEYE  2010年8月号に
グラフィック有効提案による受注拡大事例として
取材を受け 誌面掲載。(4年ぶり 2回目の掲載)



2010.8.19
CoCoTの理事として、
松戸アートラインプロジェクト 実行委員会に参加

http://malp2010.com/ 



二足目のわらじを履かず現在に至る。。。。。。。。。。。。。

長々とお読み下さりありがとうございます。

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こ こ 五香南に住んで 2年が経ちました。

と ても静かで 日当たりもよく
いい仕事をさせて頂ける環境は整っています。

ど うか ベン・デザインオフィス共々
高山 勉を  これからもよろしくお願い致します。

2011.01.01 記
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第22章 〜再起動その後〜  へ続く


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